丹波市戦没者追悼式での雑感
4月14日、
氷上郡(現丹波市)青垣町芦田村出身の
大西瀧次郎中将は「特攻隊の生みの親」と呼ばれている。
昭和19年10月20日早朝、特攻隊員を集めて訓辞を行う。
「日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは、
大臣でも軍令部総長でも、自分のような地位の低い司令官でもない。
したがって、自分は一億国民にかわって、
みなにこの犠牲をお願いし、みなの成功を祈る。
みなはすでに神であるから、世俗的な欲望はないだろう。
が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが成功したかどうか、であろう。
みなは永い眠りにつくのであるから、それを知ることはできないだろう。
我々もその結果をみなに知らせることはできない。
自分はみなの努力を最期までみとどけて、上聞に達するようにしよう。
この点については、みな安心してくれ。しっかり頼む。」
そして一人一人と握手して、武運を祈った。
昭和20年5月、軍令部次長として内地に戻っても、官舎に一人住まいし、
同僚から週に一度くらいは家庭料理でもと勧められても、目に涙を溜め、
「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。
614人もだ。俺と握手していったのが614人もいるんだよ」と答えた。
そして大西は、「特攻は統率の外道である。わが声価は棺を覆うて定まらず、
百年ののち、また知己なからんとす」
つまり、自分が死んで後、その評価は百年経っても定まらない、
誰も自分がやったことを理解しないだろうと語っていたのである。
大西は、敗戦の翌日未明、次長官舎で割腹自殺した、下記の遺書を残して。(享年55歳)
遺書 吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんす 海軍中将 大西瀧治郎 |